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残念ながら「疑わしきは罰せず」という刑事裁判の大原則が、この国では鴻毛よりも軽いようだ。

9・26不当判決から3日、「奇妙な論理」が横行し始めた。調書をすべて却下して、状況証拠の積み重ねで断を下した件(くだん)の判決が、冤罪を生む元となる「自白偏重主義」から脱した、「新しい形の判決」として、むしろ、評価するような論調だ。また、以下のような「推定有罪論」が、刑事被告人の利益を守るべき「弁護士」から出されているのも、実に痛い。

 陸山会判決「推論による有罪」批判に思う(花水木法律事務所ブログ) 
 
 陸山会事件判決の評判が悪い。例えば江川紹子氏は、裁判所が多くの被告人調書を証拠採用しなかったにもかかわらず、他の証拠から「大胆な推論」で有罪認定したと批判している。

 しかし、この批判はバランスを欠くと思う。江川氏は、自白に依らなければ、推論に頼るしかない、との反論にどう答えるのだろうか。

 特に、「密室の犯罪」や「被害者のいない犯罪」を、自白なしで立証するには、推論による有罪認定以外の方法がない場合が多い。政治資金規正法違反はもちろん、贈収賄罪、多くの経済犯罪は、「密室」かつ「被害者のいない犯罪」だし、強姦や強制わいせつ等(痴漢も含む)、共謀共同正犯は、「密室の犯罪」に分類されよう。これら一定の犯罪について、自白に頼らないことは、他の証拠から有罪を推論することと同義である。しかも、自白に頼らない分、今までより「大胆な推論」が必要だ。それもダメだというなら、自白のない事件は無罪で良いと割り切るか、故意や謀議を不要と法改正するところまで認めなければ、一貫しない。

 無罪で良いと割り切るのは一つの見識だが、政治資金の透明化という立法目的が損なわれるリスクがある。だから無罪で良いという人は、政治資金の透明化は不要というのでなければ、どう手当てするのか考える責任がある。

 政治資金規正法違反を過失犯に法改正すれば、「単なる記載ミス」との弁解は通用せず、「ミスで結構。有罪!」となる。もちろんこの場合、刑を故意犯なみに重くしないと、立法目的は達成できない。その代わり、本当のうっかりミスも重く罰せられてしまうし、ひいては、故意犯処罰という刑法の原則を大きく崩し、結果処罰に近づける可能性がある。

 誤解を恐れず言うと、自白重視は、えん罪を防止する一つの方法だった。「犯罪者でなければ、身代わり等よほどの事情が無い限り、罪を認めるはずがない」という「常識」が存在したからだ。だが、この「常識」は、これを逆手に取り、無理矢理自白させる捜査手法を生み、えん罪につながった。ここに、脱(自白)調書裁判の根拠がある。

 だが、脱(自白)調書裁判は、「大胆な推論による有罪認定」を帰結するから、「一貫して否認する無実の被告人」を有罪に陥れるリスクを増やす。あってはならないことだが、裁判官も人間だ。人間は、必ずミスを犯すし、どんな制度にも、絶対安全はない。われわれは、それを半年前に学んだばかりだ。

 私は、石川議員らが無実か否かを知らないし、判決文すら読まずに、推論過程の是非を論評する意図もない(大胆な推論が許されるとしても、どんな飛躍も許されるわけではない)。私が言いたいのは、制度というものは、常に長所と短所を抱えているものであり、しかも、多種多様な要素が複雑に絡み合い、かろうじてバランスを保っているものだから、一つの要素を理想に近づければ、必ず全体がうまくいく、というものではないし、逆効果の場合もある、ということである。

 
法律に素人である者に対して難解な用語を並べると、乱暴な議論も、一見、まともに見えてしまうということがある。「専門家」の中には、そのやり口で人の目を意図的に晦ませる者がいる。電力会社から多額のカネを貰い、事故後にテレビ出演して科学用語を並べ「安全ホラ」を吹きまくって、人々の多くを被爆させた御用学者どもなどは、その典型だ。上に掲げた記事の筆者である弁護士さんにも、失礼ながら、同じ「匂い」を感じて仕方がない。

 「江川氏は、自白に依らなければ、推論に頼るしかない、との反論にどう答えるのだろうか」この部分に、まず、大きな違和感を感じる。

 江川氏がどう答えるか、わからないが、僕ならためらうことなく「自白に頼らず推論しかないという状況自体、被告人の無実を指し示したものだ」と答える「疑わしきは被告人の利益に」というのは、刑事裁判の大原則であるはずである

「疑わしきは罰せず」(うたがわしきはばっせず、ラテン語:in dubio pro reo)は刑事裁判における原則である。ラテン語の直訳から、「疑わしきは被告人の利益に」ともいう。刑事裁判においては検察側が挙証責任を負うが、ある事実の存否が判然としない場合には被告人に対して有利に(=検察側にとっては不利に)事実認定をする

 この言葉は事実認定の過程を裁判官の側から表現したものである。これを、当事者側から表現した言葉が推定無罪であり、ふたつの言葉は表裏一体をなしている。

条文上の根拠としては、刑事訴訟法336条が、「被告事件が罪とならないとき、又は被告事件について犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言渡をしなければならない」と定めている。
http://bit.ly/aJIyA9

 
この「原則からの逸脱」をはかったのが、9・26の不当判決ではないか。裁判官が挙げた「証拠」は、ことごとく裁判官の「主観」から発せられたものだ。「客観証拠」という言葉はおかしい。なぜなら「客観性」は「証拠」の持つ、もっとも重要な要素であるからだ。だから「主観証拠」というものは存在せす、そもそもそんなものは「証拠」とはいえない。

 法律の専門家であり、被告人の利益を守る立場であるはずの弁護士が、このように裁判官による「原則からの逸脱」に与する姿勢をみると、自分が刑事告発されたときには、絶対にこんな弁護士に依頼したくないと思わずにはいられない。

「無罪で良いと割り切るのは一つの見識だが、政治資金の透明化という立法目的が損なわれるリスクがある。だから無罪で良いという人は、政治資金の透明化は不要というのでなければ、どう手当てするのか考える責任がある」──これも、おかしな言い方だ。政治資金をどう透明化していくかは、別の問題である。現状、透明化できていないからといって、「証拠なしの断罪」を行っていいというものではない。推論による断罪が問題だと言っている者に、「政治資金の透明化」に対する責任を迫る。ちょっと変わった弁護士センセイである。

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 冤罪が発生するのは「自白重視」だからか。調書を以って「証拠」とすることが重要視されてきたから、冤罪が後を絶たなかったのだろうか。それは違う。冤罪は捜査官の「思い込み」からまず発生する。刑事や検事の「推論」とか、「カン」とか、そういう「主観」が偏重されてきことにこそ問題があるのではないのか。誘導や強要による調書の作成という行為は、主観的見込み捜査から導き出された結果に過ぎないのではないか。

 「脱(自白)調書裁判」をやる、証拠に基づいて裁判をやる──そうやって意気込んで調書のほとんどを却下したのはいいが、証拠が何もない。何もないので裁判官の「・・と考えるのが自然である」「じゅうぶんにあり得る」などという推理のみで「事実認定」を行う。「自白偏重」をやめて、「推測偏重」にしても、まず冤罪は防げないだろう。法と証拠に基づかず、主観や価値観や偏見や思い込みに基づいて捜査や裁判をやる限り、自白を偏重しようがしまいが、結果は同じである

 どんな場合でも、法と証拠で立件できない事案は、すべて「事件そのものがなかったこと」とならなければいけない。では、本当に悪いヤツをどうして捕まえるのかということを、記者クラブメディアの報道に脳の芯まで浸潤されているB層裁判官やこのB層弁護士は言いたいのかもしれない。

 そいつが本当に悪いヤツかどうかを客観的に証明できない者に、そんなことを言う資格はない。  「悪」のひとつやふたつ逃がしても、無実で罰せられる者を一人として出してはならない。この「理想」の現出はきわめて容易であるはずだ。客観的な「法」と「証拠」に照らして、すべての事案を粛々と処断していく。それだけで良いはずなのだ。

 それが恰も「実現困難」であるかのように言い募る、こういう弁護士センセイには、「法律の専門家」を名乗って欲しくないというのが、法律にはど素人な庶民のひとりとしての偽わらざる想いである。

(明日は名古屋出張ですので、携帯で更新できれば、します)

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元役員の正義の内部告発を罰した裁判官。陰惨な集団リンチによる殺人事件の、事件自体の存在をも否定した裁判官…。
各個の事情を顧みぬ判例主義、相場主義、無罪病、欠落した市民感覚、正義感の欠落、倣岸不遜。
緻密な取材で、司法を斬る渾身の告発ノンフィクション。

トンデモ裁判官に当たるか当たらないかで被告人の運命は両極端に分かれるようです(秦映児) 


 

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