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「原発ファシズム」を撃つことこそが許してきたことへの罪ほろぼしだ

 内橋克人氏をご存知だろうか。経済評論家ではあるが、権力側のスピーカーの役割を演じて恥じない有象無象の御用評論家とは違い、「市場原理主義」を真っ向から批判する、常に「弱者の側」に立った評論活動を展開してきた「正義の人」だ。

 以下のTPPに関する講演録を読んでみれば、氏の曇りのない目や、真実を射抜く言葉の力を感じ取ることができると思う。是非、一読をお奨めする。 『異様な「TPP開国論」歴史の連続性を見抜け』  

その内橋氏が過去に出版した『原発への警鐘』(1986年 講談社刊)という著書が、福島第一原発事故を機に、緊急復刻された。 日本の原発、どこで間違えたのかという本だ。その前書きから大きな感銘を受けたので、その一部をここに引用する。

 巨大複合災害が東北・北関東を見舞った。(略)おびただしい数の犠牲者、一瞬にして生存基盤を奪われた被災者たちの過酷な漂泊の旅は終わっていない。
 「自然災害」に加えて「人災」が追い打ちをかけている。地震、津波、そして原発事故に打たれた「原発避難者」たちは、はるかな距離を集団疎開の旅に追い立てられている。
 福島第一原子力発電所に発生した原発事故は、過去、私たちの国と社会が特定の意図を持つ「政治意思」によって常に”焼結”されてきた歴史を示す象徴である。人びとの魂に根づく平衡感覚、鋭敏な危険察知能力、生あるものに必須の猜疑心、それらのすべてを焼き固め、鋳型のなかにねじ伏せて突進しようとした剥き出しの権力の姿に違いない。
 並々ならぬ強権力を背にした政治意思に異議をさし挟むものは、異端者か、さもなくば「科学の国のドン・キホーテ」と貶めて排除してきた。「原発安全神話」が高みの祭壇に飾られ、世界にも数少ない「原発大国」への道は掃き清められた。
 巨大複合災害に打たれたそのとき、私たちの社会はなおも「原発122基構想」(2030年時点の達成計画)へ向けて疾駆する途次にあったのである。(略)
 この国においては、人びとの未来を決める致命的な国家命題に関してさえ、「国民的合意」の形成に努めようとする試みも、政治意思さえも、ほとんど見受けられることはなかった。国の存亡にかかわるエネルギー政策が、原発一辺倒に激しく傾斜していった過程をどれだけの国民が認知し同意していたであろうか。


 「原発ファシズム」とも言うべき、政治的専制の構築が、長い時間をかけて準備され、われわれ民衆にそれと悟られることなく、周到にすすめられてきた。知らず知らずのうちに、その体制に取り込まれきたわれわれもまた、原発事故の責任の一端を負っているという自覚は、持ち続けていかなくてはならないのかもしれない。

 「安全」とか「必要」とか、国や電力会社の言うままを、多少の不安感を抱きつつも、意識することなくなんとなく信じていた。「無知」であり「無関心」であること自体が、大きな罪になり得るということの代償としては、福島第一原発の事故は、大き過ぎたと言わざるを得ない。

(略)原発廃棄を住民投票によって決める──などの選択はおよそ政治思考の範囲内に位置を占めた痕跡さえ認められない。強権的な政治意思を背景に原発エネルギー依存体制に針路をとってきたがゆえに、逆にエネルギー選択の多様性が狭められた。ますます原発に傾斜せざるを得なかった。いま、その咎(とが)が自らの身に跳ね返った現実を挙げておかなければならない。「原子力ルネッサンス」との流行語のもと、少なくとも、これまで自然・再生可能エネルギーなどへの技術的可能性も意思も真の意味で開花することはなかった。これが第一である。

 
日本の自然・再生可能エネルギーにかんする技術は、世界でもトップクラスと言われ、欧州各国で採用されている。しかし、皮肉なことにその突出した技術は、当のわが国ではほとんど使われていないときく。「原発ファシズム」にとって、他のエネルギーは、「危険思想」のように駆逐されてきたのだ。

 第二に、これまで原発一極傾斜体制を推し進めてきた原動力の一つに、あくなき利益追求の経済構造が存在していたことだ。原発建設は重電から造船、エレクトロニクス、鉄鋼、土木建築、セメント・・・・ありとあらゆる産業にとって大きなビジネスチャンスであった。1980年代前半、国の内外ともに不況は深刻だった。電力九社の発電設備の余剰率(ピーク時電力に対する)は32%を超えていた。つまり設備の三分の一近くがすでに余剰だったのである。
 「どうして、これ以上、問題を抱えたままの原発が必要なんでしょうか」と問う声が高まった時代、それでも原発増設にブレーキのかかる気配はみられなかった。すでに償却済みの、したがって安いコストで発電できる水力や火力の設備をスクラップしてまで原発建設は進んだ。


 ほんらいの役目である「発電」よりも、「金の成る木」としての機能がもとめられてきた──そんな倒錯したツールとして存在した原発が、ひとたびクラッシュすると、夥しい損失を国家や国民に齎してしまう。人間の愚かさを炙り出す寓話のようなストーリーだ。

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 第三に、(略)ひとたび原発が立地した地域社会には特有の「暗さ」が感じとれた。そうした地域では原発が立地するまでは活発であった賛否の声は消え、地方議会においても反対派はほぼ淘汰の憂き目に遭っていた。地域の住民たちは雇用の場を得たことの代償に、あるいは迷惑施設料(「電源三法交付金」)など「原発マネーフロー」の僅かな余恵と引き換えに、原発については「黙して語らない」を信条としているかのようであった。
 突出したCATV(地域ケーブルテレビ)の地域的普及率、不似合いなほど行き届いた市街地設備、壮大な建物・・・・。住民は不安を抱えながらも滅多なことでその不安を口にすることはなかった。(略)

 
原発に対する不安を口にすることさえ憚れる──この事態こそ、「ファシズム」と表現する以外にないだろう。原発立地地域には、北朝鮮を彷彿とさせる統制が行き渡っていた。そういうものを齎す存在が、健全であるわけがないのは、いやというほど、歴史上の実例が示している。そのほとんどが邪悪で、憎むべきものであることも。

 本日は、時間がないので、ここまでとする。内橋氏のこの「前書き」については、次回以降も触れていくことにしていくつもりだ。

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日本の原発、どこで間違えたのか


未曾有の惨事となった東京電力福島第一原発の事故。いったい根本原因は、どこにあったのか。時計の針を逆に回して「原発誕生」からを振り返ると、鮮やかに「真相」が浮かび上がる。「万が一」を恐れる住民たちを前に、「安全」への配慮は万全だったか。日本を代表するジャーナリストの渾身のルポルタージュが今、甦る。
序 つくられた「原発安全神話」-なぜ、いま『原発への警鐘』を復刻するのか/第1章 福島第一原発の風景-「万が一」を恐れた住民たち/第2章 東京電力と原発-福島第一原発はこうしてできた/第3章 人工放射能の恐怖-「放射線はスロー・デスを招く」/第4章 「安全」は無視され続けた-「公開ヒアリング」という名の儀式/第5章 なぜ原発を作り続けるのか-電力会社の「利益」と「体質」


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