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ツイッターを敵視する「保守おばさん」の妄言

「曽野綾子」という作家がいる。
今では、「櫻井よしこ」と並び、日本を代表する「保守おばさん」と言ってもいいだろう。
そのおばさんが先日、産経のコラムで、「ツイッター」について、かなり、痛い発言をしているらしいことを、mixiのある方の日記で知った。

筆者は、小説を読むのが好きだが、いわゆる「純文学」は好まない。
思春期から青年期にかけて、もっぱら読んできたのは、内外の本格ミステリとSFである。
それと、親父が歴史好きだったのに影響され、吉川英治や司馬遼太郎のものをほとんど読んた。
けれども、「純文学」はダメだった。なぜなら、「ちっとも面白くない」からだ。
「小説はまず、面白くなければダメ」だと言ったのは、わが郷土より出現せし巨人、松本清張だ。
初めて氏の小説「ゼロの焦点」を読んだ若き日、とうとう徹夜で読破したまま仕事に出てしまい、あやうく大事故を起こしそうになったことを覚えている。
社会派ミステリだけではなく、戦後史、昭和史、果ては、古代日本史までカバーする氏の旺盛な知識欲に影響され、その枝葉として、関連するさまざまな書籍を読むに至って今の自分があると思っている。松本清張は、筆者にとって、「偉大な郷里の先輩」であり、且つ、「恩人」であり、「師匠」なのである。
立花隆のようなチンピラジャーナリストを「知の巨人」などともてはやす傾向が、どうも、いまいちわからない。
「知の巨人」という称号は、松本清張のような人にこそ冠せられるべきではないのか。
その仕事量と質に於いて、立花など、足元にも及ばないと確信するのは、筆者だけではないだろう。

いつものように、話の道筋が逸れてしまいつつあるが(笑)、とにかく、松本清張の謂う「小説は面白くなければ存在意義がない」というテーゼには、激しく同意するしかない。
たとえば、「高村薫」という女流作家がいる。
筆者は、「マークスの山」から始まって、「照柿」「レディ・ジョーカー」と、彼女の「合田刑事」シリーズを息を呑む思いで、読んできたが、新境地をひらいたとされる「晴子情歌」は、まったく読めなかった。
そのまわりくどい心理描写の延々とした連なりには頭痛さえ覚え、活字を目で追うことが苦痛になって、とうとう途中で挫折、すぐ「BOOK OFF」に行って売っぱらってしまったくらいである。
「曽野綾子」の小説も、何度かトライしたことがあるが、まったく面白くなく、いつも途中で投げ出してしまった。
また、この作家が、かなり乱暴な放言癖があることを知って、一切、その作品を読む気が失せてしまった。
作家というのは、主観でメシを食ってるだけあって、予断と偏見の塊のような存在である。
したがって、作家が政治について物申すときは、実に「根拠なき断定」が多く、また、「認識しない評価」が多い。
名前は伏せるが、どこかの東京都知事が、その好例であると言っていいだろう。
きわめて「政治的発言」の多い「曽野綾子」も、この脳味噌がおからで出来たような知事と同類であることは間違いがない。

おっとと、筆者のこの記事自体がまわりくどくなってきつつあるようだ(笑)
本題である、「曽野綾子」が「ツイッター」についていかに痛い発言をしているか、まずは見ていこう。
ネットで確認することが出来ないので、ある方の日記に転記されていた内容を掲げるしかないことを、お許しいただきたい。

「若手大臣が予算委員会に遅れた。ツイッター(英語の意味はピーチク・パーチク)をしていたという。 これは新しい麻薬時代の幕開けである。世間はどうして気がつかないのだろう」
「ブログにもひどいものがあるらしいが、それを書くだけの時間も作文能力もない人がツイッターを始める」
「政治家はこれこそ金のかからない選挙運動だとして、一斉に『悪の道』ならぬ『ツイッターの道』へ走ることは間違いない。お互いに言いたい放題だ」
「1日は24時間なのに、起きている間のほとんどの自由時間を、コンピューターの前に座っている病的な人たちがすでに出現している。これは新しい麻薬中毒患者以外の何ものでもない」
「これは新しい21世紀型の麻薬で、ほんものの麻薬よりももっと簡単に手に入るというだけで、もっと怖いものになるだろう。しかも麻薬は悪いものだが、ツイッターは無害で、今日的だと思っているところが恐ろしい」
「さて、どうなるか、私は見物だ」

ここに存在するのは、「ツイッター」に対しての、あからさまな嫌悪の表明しかない。
しかも、その嫌悪の底には、「ツイッター」が「麻薬」のようなものであり、「悪」であるとの、不当な決め付けがある。
原口大臣は、「曽野綾子」氏に言わせれば、「麻薬患者」であり、「悪の権化」であると言いたいのか。
先日の「よみうり寸評」氏もそうだが、「曽野綾子」氏は、この文章を書くまえに、ツイッターの何たるかを取材し、正確な認識をしたのだろうか?
「お互いに言いたい放題だ」と言うが、自由な発言は当たり前であるし、また、その「お互い」とは誰と誰を指すのか。
「ユーザー同士」という意味なら、筆者は、ユーザー同士が言い争いをしているのを、TLで確認したことはほとんどない。
「2ちゃんねる」で常態化している「誹謗中傷的やりとり」との混同が、ここにはないだろうか?
使ってみれば、ツイッターが、そのようなことが起きにくいツールであることが、すぐにわかるはずである。
正確な認識もなしに、自身の感情の欲するままに、「麻薬」だ「悪」だと断定することを、「いちゃもん」と言う。

「いちゃもん」というのは、きわめて非生産的なものであり、何の価値も生み出さないものだ。
新聞のコラムに「いちゃもん」を書き連ねるその行為が世の役に立つことは、ほとんど皆無といっていいだろう。
「第三の新人」か何か知らないが、いくら水準以上(なんだろな、筆者にはよくわからないが)の文学作品をモノし、それなりの名声を得た人物であるとしても、稿料を得て書く「プロの読物」としては、これは最低である。何の存在意義もない。
しかも、許しがたいのは、「さて、どうなるか、私は見物だ」という結語だ。
ネトウヨに特徴的な、この、冷笑的で、世の中をナナメに見た態度は、筆者がもっとも嫌悪をおぼえるものだ。
こういうところに、この作家の本質を見る思いがする。
「曽野綾子」が、いままで、どんな許しがたい言動をしてきたか、wikiに明らかなので、それを以下に転載してみる。

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チリ・クーデターの際に、サルバドール・アジェンデは左翼にしか奉仕しない政治家だとしてアウグスト・ピノチェト将軍を首班とする軍事独裁政権を擁護した。
学生運動の評価をめぐって上野千鶴子と論争(1989年)。
クリスチャンの立場からか、靖国神社に代わる国立追悼施設建設に賛成している。個人としては靖国神社に参拝しており、2007年6月に李登輝元台湾総統が靖国神社に参拝した際、夫の三浦朱門と共に同行した。
西部邁、小林よしのりらに「本日の雑談」でイラク人質問題、靖国問題に関するスタンスを揶揄される。
第二次大戦時、沖縄県渡嘉敷島での集団自決強要の真偽を調査したノンフィクション『ある神話の背景』や小中高校生への奉仕活動を打ち出した「日本人へ」(教育改革国民会議第一分科会報告書)などでは論争を巻き起こした。特に『ある神話の―』では、集団自決の軍命があったとする『鉄の暴風』や大江健三郎の『沖縄ノート』等が現地取材もせず間違った記述が多いと主張(軍命をしたとされてきた本人から否定の証言を得る)した。この著書を一つの証拠資料として、2005年8月に軍命をしたとされてきた梅澤裕と赤松大尉の遺族が、大江健三郎と岩波書店に名誉毀損と賠償・出版差し止めを求める裁判(「集団自決」訴訟)を起こした。2007年の教科書検定で文部科学省は、高校歴史教科書の検定において、これまで事実とされてきたことが裁判係争中であることを理由の一つとして、日本軍の強制記述を削除する検定意見を付けて削除させた。
『ある神話の背景』については1985年に『鉄の暴風』の著者太田良博より反論があり、曽野は、それに対して「こういう(『鉄の暴風』のような)書き方は歴史ではない。神話でないというなら、講談である」「太田氏という人は分裂症なのだろうか」と返した。
その後、山崎行太郎は、(1) 「SAPIO」2007年11月28日号の曽野の対談や『ある神話の背景』を見て、曽野が大江健三郎の『沖縄ノート』に記された「罪の巨塊」(物) を「罪の巨魁」と誤読しているとし、(2) 曽野が沖縄での取材で富山真順への取材が自分に不利なこととわかると、家永教科書裁判の法廷で「そういう人物は知らない」と嘘の証言までして、富山真順との接触を否定したとし、(3) 曽野の依拠する『陣中日誌』が一種の政治的な意図をもって1970年に発表された二次資料に過ぎないとし、(4) 『鉄の暴風』が新聞社の企画した「集団自決」の生き残りや目撃者達との座談会に出席した上で、彼等の体験談や目撃談を元に書き上げたもので、伝聞情報だけを元に記者たちが勝手に想像して書き上げものではない、などと自身のブログで主張した。
しかし上記 (1) について、「SAPIO」2007年11月28日号にて曽野の対談相手であった上武大学大学院教授の池田信夫によると、彼女は「キョカイ」と発音しており、それを「巨魁」と誤記したのは編集部なだけである、と曽野が誤読などしていないことが明らかにされ、「山崎行太郎という著書といえば自費出版しかないような自称評論家は対談もしたことがないのだろうか」と批判されている[3]。これに対し山崎は1984年以降に出された曽野の「ある神話の背景」において全て「罪の巨魁」と表記されていることを示して、「池田信夫君、逃げないでね(笑)。君の日本語は大丈夫か?」と反論している。また、山崎の指摘通り1984年の読売新聞社版以降の全てにおいて[4]「罪の巨魁」と記されているが、「出版社ではなく、曽野の誤記・誤読」の証明はできておらず、また『ある神話の背景』の初版が「罪の巨塊」と正しく記されてあることから[5]、「曽野の誤読によりこの問題が始まった」という山崎の主張が正しいのか否かを確認することはできない状態である。
曽野は「沖縄は閉鎖社会」、「学校教育の場では「日の丸」を掲揚し、「君が代」をきちんと歌わせる」べしと主張した(沖縄タイムス1985年4月8日~4月18日)。
慶良間列島の島々の名前を覚えにくいという人の為にと「慶良間ケラケラ、阿嘉んべ、座間味やがれ、ま渡嘉敷」という歌を作った(諸君!1971年10月)。
家永教科書裁判三次訴訟では被告(国側)側の証人として証言し、沖縄戦の渡嘉敷島での「集団自決」についての見方を示した。証言は以下「彼ら(赤松隊)は好むと好まざるとに関わらず島を死守することになったが、それとても決して島民のためではなかった。村民はおそらく『小の虫』であって、日本の命運を守るために犠牲となる場合もある、と考えられていたに違いない」(出典:沖縄戦と教科書、安仁屋政昭他、2000年)
中学教科書において必修とされていた二次方程式の解の公式を、作家である自分が「二次方程式を解かなくても生きてこられた」「二次方程式などは社会へ出て何の役にも立たないので、このようなものは追放すべきだ」と言った(この後、夫の三浦朱門(後の文化庁長官)が教育課程審議会で削除を主張し、現行中学課程で「二次方程式の解の公式」は必修の事項ではなくなった)。
この削除発言に関して、西村和雄編『学力低下が国を滅ぼす』中で岡部恒治から反論の声があがっている。
海外の悲惨な状況にある難民への支援活動に関わっていることから、国内の災害などの被害者や、市民活動に対して、一貫して批判的な態度を取っている。
大型台風被害について、「一晩くらいの事で何でそんなに避難者を甘やかすのか、避難するなら健常者は食糧寝具くらい自分で避難所に持って来るのが普通」とコラムで述べる[6]。
新潟県中越地震について、「避難所で救援物資を当てにして待っている避難者は甘え過ぎだ。避難する時に寝具を担いで逃げるのは当たり前。自分ならガス漏れの心配のない所ですぐに火を熾して米を炊く。必要なものが手元にないのなら、その辺で調達してくる才覚も必要だ」とコラムで述べた。
戦地に折鶴を贈る市民運動に対し「戦地に送るなら金を送った方が遥かに有用なのに、全く馬鹿げている」と批判。ただし、戦地に募金や物資を送ることについても「甘やかすな」と批判している。(後略)

とくに赤字で強調したところは、本当に許しがたいと思う。
慶良間列島の島々の名前をバカにしたともとれる歌をつくるなんて・・人間として、どうなのか。
その島のひとつ渡嘉敷島で自決を強要された島民は「小の虫」。
日本のために沖縄は捨石になれ、犠牲になれと言うことは、「私が生き延びるためにお前は死ね」ということと同じである。
また、災害の被害者にまで「自己責任」をもとめる、ゾッとするような「冷たさ」・・。
これは、どこかの東京都知事や、どこかの大阪府知事と通じるものがあるといえよう。

「曽野綾子」がツイッターに敵意を燃やす背景には、文を操って生計を立てる者の、本能的な警戒心が存在するのかもしれない。
そもそも、高邁な「文学者」である自分から見れば、素人が文章を書いて世間に発表するなんてことは、「ちゃんちゃらおかしい」という「上から目線」がある。
それに加え、ツイッターというツールに、意図するしないにかかわらず、「虚飾」を剥いで、「真実」を炙り出す潜在的な機能があることに対する本能的な恐れもあるのではないか。

そして、今まで自分たちの職業的な専売特許であった、「意見の発信の独占」が侵されていることに、職業的な危機感を持っているのであろう。
しかし、私たちは気づきはじめている。
「立花隆」にしろ、「曽野綾子」にしろ、その書くものは、ぜんぜん低いレベルのものであることを。
彼らのだらだらした駄文にくらべ、たった140文字に顕れたツイートのほうが、何百倍も示唆に富み、生産的であり、世の役にたつこともあるということを。
これからもどんどん、私たちの鋭い「つぶやき」を世に発信しようではないか。
そして、名声や権威のみの「売文屋」たちの、中身のないスカスカした底の浅い「言論」を駆逐していこうではないか。

関連記事 [未分類]
未分類 | コメント(4) | 20100312040335 | 編集
100|新聞|20100312065140

曽野綾子氏といえば、有名なカトリック教徒である。
しかし、その言動は、カトリック教徒には「相応しくない」ので、驚いた。
この言葉の「暴力(暴言)」の数々には・・・。
曽野綾子氏に、「キリストの愛(アガペーの愛)」があれば、
人を見下したような数々の発言をしないはずだが・・・。

参考文献:
「コリントの信徒への手紙 一 13章4~7節」
(聖書 新共同訳)
~「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。
愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、
自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、
すべてを望み、すべてに耐える。」

曽野綾子氏の「数々の発言」は、「コリントの信徒への手紙 一 13章4~7節」と正反対である。
101|更紗|20100312134725

教員の講習会(義務)で彼女の講演会が行われたそうです。参加者の日記を読みましたが、聞くに堪えなかったと書いてありました。夫の三浦朱門の発言も許せません。
103|くまがわ直貴|20100312175542

 少し脱線するかも知れませんが、ブックオフなどに代表されるいわゆる「新古書チェーン店」の隆盛が著しい頃(2000年代初頭)に、有名作家やマンガ家達が、「ブックオフでは本を買うな!」的な事実上の不買アピール文を、大手マスコミを通じて発信している時期があったのをふと思い出しました。

 ツイッターやケータイ小説というものの氾濫により、「一億総物書き時代」が到来している中で、職業作家であるならばそれなりの「余裕と分別」を持ち合わせた態度が求められて来ると思います。
 上から目線=大衆否定に繋がるのではないでしょうか?
808|-|20101125005244

こんなクズババァ、批評する価値もない。
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