ブックマーク
プロフィール


秦映児です

秦映児の私的ブログ 
平らかなるまどろみ

秦映児の他ブログ
検索フォーム
今に通じる80年前の官僚とメディアの関係

昨日、本棚を整理していたら、一番上に平積みしていた埃だらけの本の中から、岩波新書の「昭和史」を見つけた。
若い頃、読んだなあ、と思いながら、ページをめくっていたら、「五・一五事件」の章の、いちばんはじめのところが目に止まった。

 新聞雑誌の役割
 満州事変から上海事変へと戦争が拡大するにつれて、新聞、雑誌、ラジオを通じて軍国主義の宣伝が活発におこなわれるようになった。
 満州事変の前までは、あるていど軍部を批判してきた新聞も、中国での戦争については「国策支持」の方針をとり、たがいにせりあいながら軍国調をたかめていった。大新聞は、その通信網を駆使して現地の戦況や将兵の近況を速報し、地方新聞や群小新聞を圧倒する絶好の機会をつかんだ。事変報道のため「朝日」「毎日」両社が満州に特派した記者はそれぞれ五十名を超えていた。
 戦争がおこった直後から、各新聞は一致して中国側の排日行動をならべたて、関東軍の軍事行動は自衛権の発動であると弁護し、若槻内閣のなまぬるい態度をせめたてた。満州事変が拡大すると、大新聞は連日のように一ページ大の戦線写真の特集号外を発行して「酷寒の地に闘ふ皇軍兵士」の姿を伝え、「守れ満蒙、帝国の生命線」と、恐慌になやむ国民の感情に訴えた。  (岩波新書「昭和史」P87~P88)


それまで軍部に批判的だった大新聞の論調は、満州事変をきっかけとするかのように、徹底した「戦争協力」へとその姿勢を激変させる。中国侵略戦争へと暴走に暴走を重ねる関東軍に肩入れするだけでなく、その代弁者として「なまぬるい」内閣の尻を叩くことさえ、平然と行っている。(新聞はしばしば政府の外交政策を「弱腰」「軟弱外交」という形で批判し、対外強硬論を煽る役割も果たした。Wiki「マス・メディアと戦争責任」
朝日は、自身のそのときの変貌の原因をどのように総括しているだろうか。

昭和6年10月1日の大阪朝日の社説は、それまで堅持してきた「中国ナショナリズムの積極的肯定の理念」と「東北各省は中国の一部といふ認識」を捨て、満州国の設置が必要だという主張に転換したのですが、その背景として、「事変直後から内田良平ら大物右翼が大阪朝日に面会を求めていた。在郷軍人会などの不買運動も起きていた」と記事は説明しています。大阪朝日は当時、「普選と軍縮の高原」と呼ばれた高原操編集局長を擁し、軍部と「全面対決」していました。
それがなぜ「変節」したのか。その謎に記事は迫ったのです。むろんこの謎はこれまでも研究されてきました。
元朝日新聞記者・後藤孝夫の『辛亥革命から満州事変へ──大阪朝日新聞と近代中国』(昭和62年)によると、高原は当初、「関東軍への疑惑をいだきながら、その拡大を最小限に食い止めるための苦心の論法」をとった。だが、10月1日の社説「満蒙の独立、成功せば極東平和の新保障」で「百八十度の転換が起こった」。この「豹変はいかにも唐突」で、その背後には「右翼の恫喝」があった、と後藤は推理しています。   (斉藤吉久 大新聞はなぜ「戦争協力」に転換したのか


世論と右翼の圧力という、いわば、「外部要因」によって社論が右旋回せざるを得なかったかのような、これは言い訳であろう。資本主義社会の新聞社が持つ、逃れることのできない宿命的な「内部要因」が、積極的な「軍部官僚」への協力という結果をもたらした。
では、その「内部要因」とは、いったい、何だったのか。
満州事変勃発のこの当時、新しいメディアとして、ラジオ放送が登場してきた。その速報性は、大新聞にとって、収益を脅かすものとして、深刻な焦りを生じさせた。インターネットという、思うような世論操作の困難な媒体が登場してきた現在と酷似しているのだが・・。

外力による曲筆は記者にとって無念以外の何ものでもありませんでしたが、新聞ビジネスにとってはまさに時の氏神でした。『朝日新聞社史』によれば、「事変発生とともに朝日新聞の部数は増え続け、7年2月29日には『事変以来、今日にて東朝20万、大朝27万余部増加』と記録される増加ぶりだった」のです。
政府による情報統制が進むことで販売経費は節減され、紙不足の時代にもかかわらず発行部数は戦後の高度成長期を上回る勢いで拡大し、昭和15年には全社で300万部を超え、社の収入は増大したというから、笑いが止まらなかったでしょう。『朝日新聞七十年小史』(昭和24年)などは「経理面の黄金時代」「新聞は非常時によって飛躍する」とまで表現しています。これが「無念の転針」の実態でした。(同)


新聞は「社会の公器」として「自他ともに認められている」ということになっている。「国民の知る権利」を守る「良識」の代表という、いわば「ええ格好しい」で体面を取り繕い、自らを「あらゆる利害から超越した存在」と暗に僭称して、「社会悪」なるものを暴き、叩いてきた。
しかし、その実態は、資本主義社会で競争を強いられる一営利企業でしかなく、自社の収益のためなら、真理でも正義でも、悪魔に売り渡してもかまわないという本性が内在していることが、この80年前の事例で明らかなのだ。当たり前のことではあるが、表向きの「良識」ポーズに目を眩まされた民衆は、新聞に書かれたことをやすやすと信じてしまう。

大本営発表をそのまま無批判に垂れ流し、国を滅亡の淵に叩き込むことに一役買った大新聞の戦争責任はどう果たされたのか。
終戦時に幹部の幾人かが辞職したにとどまったに過ぎない。(しかも、朝日においては、6年後に全員、役職復帰を果たしたという)
政党政治をないがしろにする軍部とともに国民の戦意を煽り、虚偽報道をくりかえして、15年にも及ぶ犯罪的な戦争によるアジア民衆の「メガ・デス」(大量死)に導いたという、根本的な自己批判がなされていないから、現在に至っても、平然と検察権力とタッグを組んで与党の幹事長を陥れようとする愚行を重ねてしまうのだ。

80年前の「(軍部)官僚」と「メディア」の関係を見てきて、官僚の行う政治的な国論操作の意思と企業としての大新聞の利害は一致しやすく、ときに共同歩調をとるということがよくわかった。そして、この宿命的な関係は、戦後最大の疑獄事件、ロッキード事件でもういちど顕現する。それについてはまた、稿を新たにしたいと思う。




オペラホールの丸屋根の上で見つめていましたね
砕けてしまった土星のような淋しい星でした
それでもあなたと歩いた星ですね

ツイッターと2ちゃんねる 国母8位で評価分かれる
ツイッターでは、「国母はよくやった」「態度や姿勢は評価できないが結果は出したじゃん」「マスコミや一部の人の批判にも負けずよく頑張ったと思う」と健闘を讃える書き込みが目立つ。国母選手の服装や態度は褒められたものではないが、そもそも「マスコミが騒ぎすぎ」という見方が多数のようだ。
一方、2ちゃんねるでは引き続き強烈なバッシングに晒されている。決勝で2回とも転倒したことから「コケ母」というあだ名がつき、「コケ母クンはどんな顔して日本に帰ってくるの?」といったスレが乱立。入賞したことに関しても「入賞(笑) 擁護の最後の砦ですな」と散々ないいようだ。「若い奴ほど国母に批判的で年寄りほど理解あるぶって国母擁護だった気がする 最近の年寄りはDQNすぎ」というものもあった。 (J-CASTニュース2/18)


今まで2ちゃんねるユーザーのほうが、マスコミ論調に批判的だった気がするけど、最近は完全に共同歩調(笑)それほどマスコミが反動化したってことかな?
ずっと前から思うけど、2ちゃんねるユーザーの多数派的な人たちって、「週刊新潮」とかの昔からの保守的なおじさん読者とメンタリティが同じなような気がする。年齢が若いだけで、精神的な、いい意味での「若さ」が、感じられないのは、僕だけだろうか。

 ★本日のナニコレ写真★  店先に晒された生首
9.jpg
江戸市中を荒らしたる極悪四人組ついに捕われここに首を晒すものなり

関連記事 [未分類]
未分類 | コメント(0) | 20100219213047 | 編集
     © 2017 世に噛む日日  Designed by 意地天