裁判員裁判で、初の検察側の死刑求刑がなされるかもしれないという、 「耳掻きクラブ殺人事件」の裁判のもようを、MSN産経ニュースが、やけに詳細に報じている。
また、テレビのニュースワイドショーも、克明に、それを報じている。
裁判員もその日の審理が終われば、家路につき、一個人としての私生活を過ごす。
テレビを眺め、新聞を読むこともあるだろう。
裁判員の心証への影響に対する配慮というものを、マスコミ各社は、寸毫も持ち合わせていないようである。
マスコミが、「市民目線」「市井の感覚」というものを、恰もそれが絶対的無謬であるかのごとく持ち上げるのは、それがマスコミ自身の「目線」であり「感覚」だからと信じて疑わないからであろう。
「自分たちが世論、民意を代表している」とする思い上がりは、朝日をはじめとする記者クラブメディアだけに留まらず、みのもんたや辛坊治郎、テリー伊藤に至るまで、その汚染の範囲を拡大している。
しかし、こういったヤカラどもが、こういう刑事事件に対し、日頃のたまっているのは、どんなものか。
「容疑者は卑劣だ」「遺族の気持ちはいかばかりか」そういった情緒的感情論ばかりではないか。
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僕が、一昨日のツイッターで、「耳掻きクラブ殺人事件で裁判員制度始まって以来の『死刑求刑』がなされそう。被害者遺族の手記を聴いて裁判員が涙したそうだけど、そんな、情緒的なことで大丈夫?」と呟いたら、「『市井の感覚』を反映させるのが裁判員制度の趣旨では?」という返信が返ってきた。
裁判員制度が始まる前後に猖獗をきわめた、記者クラブメディアあげての、大絶賛キャンペーンが、一定の成果をおさめていることを思い知る。
裁判員裁判に顕著な、裁判のショー化、劇場化という傾向は、マスコミのもっとも歓迎すべきことだろう。裁判員制度が適用される初めての裁判が東京地裁で行われた(2009/8/3~8/6)。
マスメディアは裁判の様子を大々的に報道し、「市民参加で身近な審理に近づいた」などと評価している。
しかし、一連の大絶賛報道をうのみにするわけにはいかない。
今回の裁判だけでも、懸念されていた制度の問題点がいくつも浮かび上がってきたからだ。
予定調和の大絶賛
「市民感覚の懲役15年」(8/7朝日)、「悩みぬいた4日間 / 重責果たし安堵」(同・毎日)、「国民の義務見事果たした」(同・産経)。
これらの新聞見出しに象徴されるように、マスメディアは裁判員制度の「順調なスタート」をこれでもかと強調した。
裁判員から質問が出れば、「市民ならではの新鮮な感覚」「専門家をうならせ」と持ち上げる。
図解や写真を多用した審理は「裁判の内容が一般にも分かりやすくなった」と絶賛。
そして、検察の求刑に近い懲役15年の判決が下ると「被害遺族の処罰感情に応えた」と評価する。
報道各社が声をそろえた大絶賛ぶりは、気味が悪いほどである。
とにかく「市民参加はいいことだ」といった短絡的報道のオンパレード。
裁判員制度初の適用ケースを批判的観点から検証したものは皆無に近かった。
【裁判員裁判とメディア / 「市民参加は良いこと」の大合唱 / 厳罰化促進の意図を隠す】より
プレゼン競争の場に
では、今回の裁判員裁判はどうだったのか。そこに現出したのは、被告人・弁護側が防御権を奪われ一方的に断罪される劇場型法廷であった。司法権力の監視どころではない。
裁判員は厳罰に「市民感覚」のお墨付きを与えるために動員されたのである。
具体的にみていこう。
裁判員の1人が「プレゼンテーション用のソフトとかディスプレーも使い、想像以上に分かりやすくされていた」と語るように、今回の公判では検察側も弁護側も視覚的な立証に力を入れていた。
検察がコンピューター・グラフィックス(CG)を使って被害者の致命傷の位置を説明すれば、弁護側は吹き出しつきのイラストで事件の偶発性を訴える。
書面中心の審理から映像を駆使したプレゼンテーションへ--こうした法廷の変化は「分かりやすい」では済まされない危険性をはらんでいる。
裁判員裁判は「裁判員に負担をかけない」という大義名分の下、審理時間が大幅に短縮されている。
このため、緻密な証拠を積み上げるよりも、視覚的なプレゼンの技術に磨きをかけるほうが裁判員の心象形成に影響を与えやすい。
法廷がプレゼン技術を競う場となるなら、組織力と資金に勝る検察が圧倒的な優位に立つことは言うまでもない。
犯行場面の再現CGで加害者の残虐性を印象づけることぐらい、映像表現に手慣れた者なら朝飯前であろう。
逆に、プレゼンにかける資金も時間もない弁護側は、十分な反論をする権利すら奪われることになる。
(同上)
裁判形式のリンチ
加えて、被害者参加の問題がある。
裁判員制度と同じく司法制度改革の一環として導入されたこの制度では、被害者の家族などが法廷に立ち、被告人や証人に直接質問したり、量刑について意見を述べることができる。
もちろん、犯罪事実がいまだ証明されていない段階では、被告人イコール加害者ではない。
しかし、普通の市民である裁判員が、遺体写真や犯行の再現映像を見せられたり、被告人に怒りをぶつける被害者家族を目の当たりにしてなお、無罪推定の原則に立った判断ができるだろうか。
被告人を裁判の当事者の一人ではなく、制裁を受けるべき対象として見てしまうことは避けられないだろう。
今回の裁判では被害者の長男が出廷し、「被告人のでたらめな話をうのみにされたら、母は死んでも死にきれない」などと訴えた。
こうした被害者の感情が法廷を支配してしまうと、被告人や弁護側は裁判員の心証を悪くすることを恐れ、弁明すらしづらい状況に追い込まれる。
当然、検察はそうした効果を狙い、被害者の処罰感情を前面に押し立てた法廷戦術を今後もとってくるに違いない。
かくして、感情に支配された法廷は裁判の形をしたリンチの場と化す。
裁判員・被害者参加制度の下で厳罰化の流れが加速し、それが「市民感覚の反映」と称して正当化されることは目に見えている。
新自由主義政策がもたらす社会の分裂と貧困の拡大は、治安の悪化となってその社会にはねかえる。これに対処するために、米国や欧州諸国では厳しい刑罰政策が推進されてきた。日本の裁判員制度も、こうした厳罰化の流れの中で導入されたシステムなのだ。
「市民参加で裁判がよくなる」といったマスメディアのウソにごまかされてはならない。
(同上)
「市井の感覚」?
「感覚」は「情緒」である。
「情緒」は「感情」である。
「感情」は「好悪」である。
「好悪」は「偏見」である。
「法と証拠」以外の要素で人を裁こうとする行為の企図するものとは何か?
http://twitter.com/#!/hataeiji/status/27950284573
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