ブックマーク
プロフィール


秦映児です

秦映児の私的ブログ 
平らかなるまどろみ

秦映児の他ブログ
検索フォーム


「原理主義」という言葉が、どちらかというと、マイナスなイメージを伴って使われることが多いのは、やはり「イスラム原理主義」などという言葉の使われ方の影響か。
排他性、非寛容性の象徴として、この言葉が使われることが多いような印象がある。

しかし、「原理主義」は、そう悪いものではないと、僕は思っている。
どんな思想信条にも、「決して譲ってはならない一線」というものが存在する。
そこを踏み外すと、際限も無く、その思想のきらびやかさは色褪せていき、やがて死滅の道を辿ることになる。

「全原発即時停止」というスローガンが「原理」とするならば、「踏み外してならない一線」とは、「原発再稼動の容認」であろう。
たとえば、「段階的に10年後までに廃止する」などという言説に賛成するのは、一度でも再稼動を許すということになる。

ある市民グループが、原発「国民投票」を呼びかけている。
しかし、僕は残念ながら、これに参加できない。
なぜならば、「容認」「10年後までに段階的に閉鎖」の二択しかないからだ。
「即時廃止」という僕の望む選択肢は存在せず、参加のしようがないからだ。

「すべての原発を即時に閉鎖すべきか」、または、「すべての原発を再稼動すべきか」という問いに賛成か反対かなら、参加できた。
しかし、現在の二択には、いずれにしろ反対なのだ。
主催グループの意図するしないにかかわらず、僕のような者は、初めから排除されているわけである。

「即時停止」派が排除されて喜ぶのは誰か。
言うまでもなく、電力会社を中心とする「原発マフィア」の面々だろう。
どちらの答えが出たところで、原発は当面、生き残るわけである。
しかも、「国民の総意」というお墨付きが得られるわけだ。
彼らにとっては、実にありがたい話だろう。

たしかに、設問の設定はむずかしかったかもしれない。
しかし、それは「これから原発をどうするか」などという、きわめて政治政策的な発想から投票をやろうとするからではないのか。
「原発はいるのか、いらないのか」という、国民の「意思」を問うものでなければ、僕みたいに「排除」される人間が出てくるのも無理からぬところだろう。
ドイツでの投票を参考にしたらしいが、ニッポンは事故を起こした当事国である。ドイツとは違うのだ。
「どうするか」なんて段階ははるかに超えて、原発の存在自体を肯定するのか否定するのか、そういう根源的な問いを突きつけられているのではないのか。

昨年の3.11以来、大小の地震が起こる頻度が高まっている。
明日にでも、3・11級の大地震が起きても、少しも不思議ではない。

福島原発事故は、わが愛する国土に、人間が素のままで入っていけない地域を現出せしめた。
真っ白な陶磁器に、大きなひび割れを生じせしめた。
数多の民衆から、土地、家、職を奪い、健康不安を招来した。

こんなことは、二度とゴメンだ。
次にまた、同じような事故が起こったら、確実にこの国が滅ぶのは間違いないのだから。




関連記事 [未分類]
未分類 | コメント(-) | 20120130235025 | 編集
    © 2012 世に噛む日日  Designed by 意地天