曽野綾子という「作家」がもし目の前にいたら、「そろそろ、自分の『狭い了見』で現実の辛さに呻吟しているマイノリティを傷つける言動をあらためませんか?『生命』を軽んずる行為は、確実にあなたの『後生』にかかわってきますよ」と、大音声で警告したくなってくる。
この種の、「自分の偏った価値観がすべて。それと異なる言説、また現実は、敢えて無視、スルーしたうえで、好き放題の暴言を言い放つ」といったスタイルは、「小説家」や、「漫画家」の一部に顕著である。たとえば、16年間、都政を私物化し、壟断した、あのレイシスト作家がその筆頭に挙げられよう。
そもそも、小説や漫画などの「創作物」は、その作者の偏見や突飛な価値観の「結晶」といっても過言ではない。
それを支持する者だけが、「読者」になればいい。
支持できない者は、徹底的に忌避する。
そういう関係性のなかに「閉じて」いるのならば、何ら、問題はない。
「偏見の塊(かたまり)」や、「非論理的な価値観」や、「非現実的なお伽噺」は、「創作物」のなかにこそ、展開されるべきなのだ。
なのにその、「反人間的ファンタジー」を現実世界に当て嵌めようとする。
自分自身は、それで気分が良いだろう。
しかし、その言動が、確実に、抜き差しならぬ現実の中で辛酸を舐めさせられ、弱り切っている人々の精神を、血を噴き出させるほどに傷つけていることに、決して気づかない。
曽野綾子氏、またしても安定の老害ぶり:岩手県矢巾町・中2いじめ自殺事件、文部科学省(週刊ポスト(2015/09/18), 頁:68)からの引用「自殺した被害者は、同級生に暗い記憶を残したという点で、彼自身がいじめる側にも立ってしまったのである」。貴方こそ「分際」をふまえては如何?
— 斎藤環 (@pentaxxx) 2015年9月7日
今年もまた、「ハロウィン」とかいう馬鹿騒ぎの日がやってきた。
どうして、古代ケルト人の習俗だったものが、西欧文化圏から見て東方の僻陬であるわが国で盛んとなったのか、さっぱりわけがわからない。
仮装をして街を練り歩く、というか徘徊する。
「祭り」が大好きな日本人の習性に、ぴったりとマッチしたからだろうか。
自分は、リベラルで国際主義者だと思ってきたが、このハロウィン騒ぎに対する反発の底に、まごうことなき「国粋意識」が存在することに、少なからずのオドロキを感じる。
「日本人のクセに西欧の祭りにうつつをぬかしおって」みたいなw
そういえば自分は、「西欧中心の世界観」みたいなものに、根源的ともいえる反発を抱いてきた。
戦前に生きていれば、北一輝や大川周明みたいな「大アジア主義」に傾倒していたかもしれない、そういう気質は、たしかにある。
西欧の帝国主義列強に抗する「東アジア人」としての矜持みたいなもの。
ただし、「日本こそがその盟主たるべき」なんてことは考えなかっただろう。
「五族協和」「大東亜共栄圏」、内実はともかく、字面のあらわす表面的な意味には、きっと激しく共感を覚えたと思う。
左翼運動に関わる当初も、「反米愛国」的な気分が大部分を占めていた。
それが、いつの間にか「日本帝国主義打倒」に変換されていたわけだが、まことに、左と右を分けるものは紙一重だと感じる。
沖縄・高江のヘリパット建設に反対するたたかいに、わざわざ「本土」の差別主義者がやってきて、激しく反対派住民を罵っていた。
大阪府警警官の「土人」「シナ人」発言は、きっとその行為に触発されたものだと思っている。
こういうヤカラを「右翼」と呼ぶには、真摯に国を思い活動してきた民族派右翼に対する最大の侮辱だろう。
同じ国の民衆が外国の軍隊の基地建設のために、人権を蹂躙されている。
真に自分を愛国者だというのなら、怒りの矛先が転倒してしまっているとしか思えない。
国を憂えるとは、その国に住む人の将来を憂えるということだ。
そこには、右も左もないと思っている。